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遥かなる国アルゼンチン
アルゼンチンについてはもっと知りたいと思っていたところ
とても素晴らしい資料を友人からお送りいただきました。
彼は私が尊敬してやまない素晴らしい方で、外国駐在も長く
とても広い視野を持っておられる方です。
アルゼンチンは最初の赴任地だったそうで愛着も理解も深い方です。
私一人だけ読ませていただいたのではもったいないと思い、ご本人の
ご好意をいただいてここに掲載させていただきます。
アルゼンチン理解の参考になさってください。
(これは異業種交流会で彼がなさったスピーチのレジメです。)


「遥かなる国アルゼンチン」

2012.7.28(土)於渋谷交流会例会   應武善登

何故今回アルゼンチンを取り上げたか
NHK大河ドラマ「坂の上の雲」クライマックス日露戦争日本海決戦の日本海軍の主力巡洋艦「日新」「春日」を日本がアルゼンチンから入手した経緯、背景―歴史の勉強―。
2001.12ディフォルトを起こしたが、ディフォルトを起こした国では何が起きるのか。
フォークランド(マルビーナス)紛争。南米版尖閣列島問題?
新型ガス「シェールガス」埋蔵量が中国、米国に次ぎ世界第3位 
私が最初に駐在した国(1965~70年)

平均的日本人のアルゼンチンに就いてのイメージ
サッカーの強い国(マラドーナ、メッシ等世界的プレーヤー輩出)
パンパの大草原を持つ大農牧畜産業国
アルゼンチンタンゴの国                
再三ディフォルトを起こしたとんでもない国 
アスタ・マニャーナのいい加減な国、等々。

地理のおさらい
日本のほぼ真裏(明石 北緯35度、東経135度 Bs As 南緯 34度 西経 57度)大きさ:南北3,694KM 東西1,420KM 面積274KM2(世界第8位の面積―日本の約7倍)人口 4,027万人 (世界 32位)、GDP 3,100億ドル(=神奈川県程度)

国名・国旗に就いて

歴史に就いて
アルゼンチンの最初の住民は、紀元前11,000年にベーリング海峡を渡ってアジアからやって来た人々だった。
1516年スペイン人 Juan Diaz de Solis この地域を探検。当時の人口は約33万人と推定。
1816年独立宣言。サンマルティン将軍活躍
独立後国際分業の一環を担い農畜産物輸出経済の育成を目指し、その間資本、技術、工業製品、労働力をヨーロッパに求め、イタリア、スペインが移民を、イギリスが資本(含む鉄道等のインフラ整備)を提供し、特にパンパの農牧畜産業が飛躍的に発展した。1880年代の冷凍船の実用化により冷凍肉の輸出が可能になった。
―アルゼンチンは他中南米諸国と異なりスペイン系、イタリア系が圧倒的に多い―。
第二次大戦中は食糧輸出国として多額の貿易黒字を累積した。
しかし乍その後の放漫財政政策、度重なる政変により国力は衰退していく―現在に至る―・・・・・・。
度重なる革命・軍事政権・民政化のサイクルで国民には“政治不信”→タンス預金(米ドル信仰)。
1982.4フォークランド(マルビーナス)紛争―為政者は英国は攻めて来ないと本気で信じていたらしいー。
1995.1メルコスール(南米南部共同市場)発足。

日亜関係
1(総括)
1898 日亜修好通商条約の締結(1888年 日墨通商条約、1895年 日伯通商条約、1897年日本チリ―通商条約)
日露戦争直前の 日新、春日購入の背景・経緯(1903.12日新・春日を取得(1904.2.16両艦横須賀に入港)―1904.2.8~1905.9.5日露戦争―。
「アルゼンチン観戦武官の記録」の紹介―ドメック・ガルシア海軍大佐(イタリア・ジェノバ造船所で建造中だった後の日新、春日の建造委員長を経て、亜国海軍観戦武官として「日新」に乗船、帰国後全5巻1400頁の本観戦報告書
執筆)。
第二次大戦(アルゼンチンは大戦勃発後も中立を保ち、最終的に1945.3.27連合国側に参加)
1945-1950 ペロンと日本。
1961年フロンディッシ大統領の訪日以降両国首脳の相互訪問。皇太子ご夫妻、天皇・皇后両陛下の訪亜を通じて親日国の一つ。
フォークランド(マルビーナス)紛争時の日本の対応―国連のアルゼンチン非難決議に与せず。

2(移民)
1597年日本人フランシスコ・ハポンが奴隷であることを不服とし、裁判→勝訴の記録あり(スペイン経由?)。
1908年(明治41年)公式移民 笠戸丸にてブラジル移民800人と一緒に移民(中160人がBsAsにて下船)
伝説の男―130年前の移民第一号牧野金蔵氏(鉄道技師)。長男ペドロ・キン大城氏(101歳) テレビ出演
(2012.3.10 TBSテレビ 21:00~)
周辺国からの流入移民が多い(陸路越境・緩い規制―主としてペルー、ブラジル経由)
第二次大戦直前の日本人移民は約5,400人だった。
終戦後両国は1952.4国交を回復。61年フロンディッシ大統領の来日時移民協定が結ばれた。
―現在の移民は約3万人。沖縄出身が70%主として洗濯屋、花の栽培等―。

日亜修好100周年記念(1997年)出版書の記録
(日本アルゼンチン協会編「日本アルゼンチン交流史」(※1)駐日アルゼンチン大使ムニョス著「アルゼンチンと日本友好関係史」(※2)からの抜粋―私はかって日本アルゼンチン協会会員だった―
大東亜戦争に際してのアルゼンチンの参戦は何故昭和20.3.27まで遅れたか
ペロン夫妻と日本人社会
藤沢嵐子のタンゴ

私が駐在中(1965.12年~1970.7年)に経験した事など(年代順)
1966.6 軍事革命(イリア政権→オンガニア軍事政権)
1966.7 ボクシングフライ級世界チャンピオン戦(海老原博幸がチャンピオン オラシオ・アカバロに敗れる―ルーナ・パルケ会場で初めて見たボクシングの世界選手権試合)
1967.7 皇太子ご夫妻訪亜(1998年天皇陛下・妃殿下として再訪された)
1970.1 デヴァルは年中行事だったが、この年初めてデノミ(100分の1)実施。
その後1983年 1万分の1、更に1985年 1000分の1)

私生活
肉中心の食生活(+ワイン)―焼肉パーティーでは肉1kg/人、ワイン 1L/人準備―
ドイツ系移民との接触、ポーランド、アルメニア人などナチスから逃れてきた欧州系移民達との交流
ゴルフ
ワイン
医療水準
アドミラル 山本(曾孫の事など)

以下順不同(初めての海外駐在地で見聞を広めることが出来た事に感謝)

米州最高峰アコンカグア展望台に出掛けた
イグアスの滝見物
世界最南端の都市 ウスアイア(南緯54°48”、西経 68°18“)訪問
南米のスイスと言われるバリローチェ(パタゴニア)観光
本場のサッカーの試合観戦(ボカ・ジュニアvsリバープレイト)及び交流戦(ボカ・ジュニアvs 三菱重工)
コロン劇場―ミラノのスカラ座、パリのオペラ座と並ぶ3大劇場の一つ
世界遺産

応武善登様のご好意に心から感謝します。
by yassy127 | 2013-08-02 15:18
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