4月18日(月)曇り
ぼっこうええ町 久世で名代官に会ってきました。早川八郎左衛門です。 この凛々しい姿にひとめぼれしました。 彼は幕領において松平定信の政治方針を忠実に実行した代官ですが巡村の際旭川の支流で赤子の間引きを知り、農村の疲弊と人心の荒廃を救う方策を立てました。 一つはクワやウルシを栽培して農家に現金収入の途を講じました。 いまひとつは農村復興の途は百姓の教化にあると考え、朱子学を基本とした学校設立に努めました。1791年久世に「典学館」笠岡に「敬業館」という郷学を作りました。 1799年彼が心血を注いで著述した教育目標「久世条教」があります。 ・農桑を勧めよ ・孝弟を敦くせよ ・争証を息めよ ・節約を尚べ ・賦税を完くせよ ・洗子(コヲマビク)を禁ぜよ ・風俗を厚くせよ こんなに見識の高い思いやりのある代官様もいたのですね。 この銅像の隣にある「重願寺」には彼の妻のお墓もありました。 久世には旧遷喬小学校が残されています。 明治40年に建てられた木造校舎で、前身は山田方谷が命名した「明親館」です。 平成2年まで使用されていました。 この校名は中国の古典、詩経の1節で「出自幽谷 遷干喬木」から山田方谷がなづけました。 「ゆうこくよりいでて、きょうぼくにのぼる」 これから2文字を取って「遷喬」としたそうです。 鶯が深山の暗い谷間から飛び立ち、高い木に移ることに例えて、学問に励み立身出世することと解釈されています。 こんなに難しくって意味のあることとはちっとも知りませんでした。
by yassy127
| 2005-04-18 18:11
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